言いたい放題ブログ

主に映画、本についての感想を自由に書いています。

92歳のパリジェンヌ

2015年制作フランス映画。

 

パスカル・プザドゥー監督、脚本。

 

 原作は、リオネル・ジョスパン元フランス首相の娘で作家のノエル・シャトレが綴っ

た小説。内容は、元首相の母、すなわちノエルのおばあちゃんの終末期についての物語

である。

 

 題名だけで勝手に『クロワッサンで朝食を』のような人生謳歌的なストーリーかと思

って観たのだが、全く違う内容だった。どちらも歳を重ねた女性の物語ではあるし、

様々な経験をしてきた天真爛漫な女性の話ではある。しかし、『クロワッサンで朝食

を』の方はだんだん話が明るくなり、最終的にはとても前向きになれる、生の喜びのストーリーなのに対し、この映画は最初明るく、だんだん重くなり、最後は何とも言えな

い気持ちを残して終わる。

 

 さらっと説明すると、この主人公である女性は、家族にも恵まれ、頭もはっきりして

いるし、一人暮らししているくらい体もまあ問題なく、幸せな老後を謳歌している。し

かし、家族との92歳の誕生日パーティの際に、唐突に、「2ヶ月後に私は逝きます」

といったスピーチを始める。理由は、周囲に迷惑を書ける状態になる前に人生を終えた

い、という思いがあるからだという。もちろん皆反対し、どうにかして死ぬことをやめ

させようとするが、彼女の意志は硬く、次第に娘も母の意志を尊重するべきなのだと心

が動き始める。

 

 この話は、いわゆる尊厳死についての問題がテーマなのだということに終盤で気づい

た。展開があまりに飄々としているというか、若干呑気な空気で進んでいくので、こん

なに重いテーマとは感じ取れなかった。

 

 私は、常々身内の一人との会話でこの尊厳死に関するような話をする。その身内は、

60歳くらいで元気なうちにさっさと死にたいといつも言うので、私は、そんなこと言

うのやめてほしい。そもそも60歳なんてまだまだ元気なのに。死ぬ必要なんてない

よ、と答える。しかし、相手は、もう子供もたくさん産んで、十分人生頑張ってきて、

これ以上悔いはないし、体力も落ちて病気で体悪くなってしんどいと思いながら、周り

に迷惑かけながら生きたくない。と言う。世の中には年老いても元気に遊びまわってい

る人もいるし、そんな悲観的にならなくてもいいのにと思うのだが、こういった考えの

人は私が思っているより多いのだろうか。そう言えば、以前仕事で知り合った70歳く

らいのお婆さんたちも、もうこれだけ生きたら何の未練もないし、子供たちに迷惑かけ

てまで生きたくないからころっと死にたい、この年まで生きれたのだからこれから健康

に気を使ってお酒我慢とかしないよ、好きなもの食べて飲んで死ぬよ。といったことを

言っていた。年齢を重ねると、死を受け入れる心境に自ずとなるものなのか。

 

 また、その話題に関連して、姥捨山伝説の話が出てくる。これは、昔、日本のお殿様

が、年老いて働けなくなった老人を山に遺棄せよ、といったおふれを出したといった話

だ(ただ、これはあくまで伝説であって実際に行われた可能性は低そうだが)。ただ、

姥捨山は老人側が死を望んでいる尊厳死ではなく、死を望んでいない老人を山に遺棄す

るのだから、現代であれば立派な殺人罪や保護責任者遺棄罪だ。身内は、この山を例に

出しては、この高齢化社会の時代で、ただ医療が発達し、従来なら生きられなかった老

人達が生き続けていて社会の負担になるばかりなんだし、現代の姥捨山のようなもの

も、必要なんでは・・・といった論を述べる。身内は一貫して年老いて周りに迷惑かけ

て生きている年寄りにはなりたくないという立場から発想していく。しかし、私にはど

うしても納得いかないし、何かそんな悲しい考え方を取り払える考え方はないのか、と

思っていた。

 

 最近、オスマン・サンコンさんがあるインタビューで語っていた話の中にヒン

トというか少し光が見えた気がした。

 

「故郷のギニアのことわざに、“お年寄りが亡くなることは大きな図書館がひとつ燃えてなくなることだ”というのがあります。つまり生きているお年寄りは図書館と同じ。それほどお年寄りの知恵と経験は大切で、子から孫へと伝えられていくものなんです。」

 

 温かい気持ちになった。

 

母なる証明

2009年韓国映画

ポン・ジュノ監督。

 

 

 韓国映画はほとんど観ないので、この監督が有名なのかとかさっぱりわからないが、

なかなか面白い映画だと思ったので書いておこうと思う。

 あまりに韓国に興味が無いため、出演者は、息子役のウォン・ビンしか聞いたことは

なく、しかも名前しか知らなかった。が、とても綺麗な顔をしていて日本人的感覚でい

っても十分かっこいいと思われる。

 

 映画全体の色が青っぽい。どちらかというとフランス映画とかの雰囲気。寂しい、晴

れているのに雨の日のような映像。途中ちょいちょいコメディタッチで描かれている

が、それでも暗い。

 

 内容は、軽い知的障害のトジュン(ウォン・ビン)が、女子高生殺害容疑で逮捕さ

れ、無実を信じる母親が息子を助けるべく奔走するという話。貧乏なこともあり、苦労

するが、失敗を重ねながらも調査を続けていくうちに、目撃者を探し出す。しかし、そ

の目撃者が語ったことは、トジュンが犯人であると決定づけてしまう内容だった。

 動転した母親は、警察に証言しようとする目撃者を殺害し、住居を燃やし、何事もな

かったかのように、釈放されたトジュンとの暮らしに戻る。

 ある日、町内の慰安旅行に行くことになった母親に、トジュンが「火事のあった場所

にたまたま遊びにいったら見つけた」という、母親の仕事道具を渡す。

 

 文章で簡単なあらすじにすると伝わりにくいのだが、最後まで薄気味悪い感じが残る

映画だった。登場人物は息子のトジュン含めて皆思惑を抱えているというか、完全に信

用ならない、何を考えているのかわからない感じがある。

 悪友ではあるが友人のはずのジンテは、トジュンが知的障害者であるのをいいことに

車のサイドミラーを壊した罪をなすりつけ、殺人で捕まった際も面会にも来ない。しか

し、お金をもらったとはいえ、母親からの尋問依頼を引き受け、トジュンのために尽力

し、トジュンが釈放された日には彼女と一緒にケーキを持って迎えに来ている。

 そもそも、息子を想い、助けようと必死な母親の姿を描いているにもかかわらず、捕

まったトジュンはしばらくして、5歳の頃母親から農薬を飲まされて殺されかけたこと

を思い出し、二人は険悪な関係になる。

 殺された女子高生だって別に清らかな若者でもなく、貧困から、売春を繰り返してい

たという設定である。

 結局は、女子高生が、たまたま通りすがりのトジュンに、たまたまトジュンがキレる

言葉を発してしまったことで起こった事件であり、そこには怨恨も金銭も強姦も絡んで

いないのである。真相は何の複雑さも無い事件だったのだが、この映画は、ミステリー

とか謎解き映画では無い。事件を通して、人々の陰の部分が現れるようにしていて、そ

れがテーマであると思われる。

 題名も母なる証明だし、英題もmotherだから、結局は親子の絆の話で収まるかと思っ

たら、そうでは無かった。母親は終盤まで息子の行動にギクリとしながらも、最後は考

えることを放棄し、なかったことにしてしまうような終わり方。

 それぞれの人物の行動には様々な解釈ができそうな内容だったが、私は敢えて自分な

りの解釈を持たず、母親が取ったように考えないことにし、全体の薄気味悪さの余韻だ

け感じておくことにする。

愛の流刑地

2007年公開の日本映画。

原作は渡辺淳一の長編小説。

主演は豊川悦司寺島しのぶ

 

 

 

 当時結構話題になっていたので聞いたことある人は多いと思う。主題歌が平井堅で、

大概の人は曲も何処かで聞いたことがあるだろう。テレビドラマにもなった。

 昔売れていたけどもう売れなくなった小説家の男菊治(豊川悦司)と昔からその小説

のファンだったという子持ち人妻冬香(寺島しのぶ)の不倫話。幸せの絶頂で男に自分

を殺させた女と、その後殺人罪で起訴される男。

 正直渡辺淳一を好ましく思っていない私は、昔大流行した失楽園も含め興味なかったのだが、なぜか観てしまった。

 で、感想としては、なんか勿体無い映画だと思った。豊川悦司寺島しのぶの演技は

素晴らしいし、出演者が端役も含めて全て豪華な俳優で固められていたと思う。しかし

それ以外の細かい設定がおかしすぎて違和感だらけだった。

 

 ベッドイン途中なぜかいきなり浴衣に着替えてくると言いだす冬香。でも下にはスリ

ップもパンツも着けている。

 太陽の光が眩しくて遮る時の手の動きを見て、冬香が北陸出身じゃないかと思う菊

治。で、富山出身という冬香。

 都合よくベッドイン中の声をテープに録音していた菊治。それによって冬香が殺して

ほしいと言っていたことの証拠となる。

 長谷川京子演じる検察官の存在の意味。恐らく、上司と不倫関係かなんかだったのだ

が、この設定は必要あったのか?中途半端過ぎていない方がよかったくらい。

 長谷川京子のファッションが胸元開きすぎていたりミニスカートすぎたり体型を強調

しすぎな若干下品な格好だった意味。

 仲村トオル演じる冬香の旦那のキャラ。エリート営業マンで仕事に打ち込みすぎて家

族を顧みない短気で傲慢風。

 

 恐らく裏設定がそれぞれの人物に細かくあって、それをちょいちょい表現しようとし

たが、この短い1回の映画では伝わりきらなくて、見る側に「え?」って思わせてしま

う。このシーンとかいらなくない?となる。富山の有名な盆踊りを出してきたり、冬香

の夫に裁判中にキレさせたり、見る側がすぐに裏設定を把握できるようにしようとした

のだろうが、わざとらしすぎて滑稽な映画にしてしまっている。

 

 それから、この話は渡辺淳一の思い込みというか幻想というか、おじさんの女性への願望が爆発していて笑えてくる。以下に思い出せるものをあげてみる。

 

・45歳のおじさんと32歳の年下女性との恋愛。(小説では55歳と36歳設定)

・相手女性は人妻。

・人妻で3人子持ちだけど性に対してうぶで清純。

・その女性は雪国生まれの控えめで大人しい性格。

・でもベッドの中では積極的で激しく乱れる。

・浴衣着ててほしい。

 

 いろんな矛盾を抱えているにもかかわらず、それを無理やりな理屈で収めようとしていて何か気持ち悪い。

 自分は北陸出身なので、このおじさんの勘違いがよくわかる。他の地域の人たちと同

じように、雪国の女は大人しい人もいれば大人しくない人もいる。自己主張の激しい者

もいれば控えめな者もいる。こんなこと別に北陸出身じゃなくたってわかる。完全に渡

辺の妄想の北陸女なのである。

 

「雪国の女はおとなしそうに見えても心の中にはきついものを持っている。」

 

裁判での冬香の母が富山弁でこう言ったが、お笑い以上のなにものでもない。

 

「死にたくなるくらい人を愛したことはないんですか」

と、終盤菊治は叫んでいたが、失楽園と共通する愛と死。深くは知らないが、渡辺淳一

にとっての恋愛に対する美学か何かなのだろうが、正直どうでもよいし、自分は一生理

解せずに死んでも構わないし、今後そんなことに想いを馳せることもない。生きる上で無駄である。

 どう美化したって結局は旦那とうまくいっていない女との不倫の話を大げさにしてい

るだけだ。

 

 関係無いが、最近小林麻央さんがガンで亡くなられたが、彼女は最後まで生きようと

した。海老蔵さんのため、子供達のため、自分自身のために。

 本当に愛し合っている二人には肉体関係なんて超越した本当の愛情が育まれるし、生きたいと願うものだろう。

 

やはり渡辺淳一と自分は合わない。

 

 

 

 

 

 

 

私は私〜超訳 ココ・シャネル〜(書評②シャネルの恋愛)

 シャネルは偉大な実業家であるとともに、恋愛もたくさんしていたようだ。

 有名なところでは、ピカソ、ダリ、音楽家ストラヴィンスキーウェストミンスター

公爵、ロシアのディミトリ大公、映画監督ルキノ・ヴィスコンティ・・・・その他たくさんの一流男性と恋愛関係があったという。また、バイセクシャルだったそうで、ファ

ッションへの考え方だけでなく、恋愛においても本当に自由な女性だったようだ。

 

 モード界ではアトリエ内の女性デザイナーのことを「マドモワゼル」と呼ぶ習慣があ

るらしいが、一般的にマドモワゼルというと、シャネル本人のことを指す固有名詞にな

っているという。マドモワゼルとはフランス語で未婚女性につける敬称である。既婚女

性に対するマダムの対語(?)にあたる。

 実際シャネルは生涯結婚することなく独身だった。

 とはいえ、独身主義者だったわけではなく、タイミングが合わなかっただけのよう

で、結婚を決意したと言われる、シャネルが生涯で一番愛したと言われるイギリス人実

業家アーサー・カペルは自動車事故死、50歳の頃の恋人ポール・イリブは心臓発作で

死亡している。

 

 恋多き女性のシャネルだが、この女性のすごいところは、恋愛はするが男性に依存は

しないところにある。完全に経済的に自立した上で、対等に男性と付き合っているので

ある。

 帽子屋の開店資金を援助してもらった恋人アーサー・カペルはどうなんだと言われそ

うだが、その援助金も数年後には全額返済しているという。これは単なる愛人から囲わ

れてお金もらっている女とはわけが違う。起業する際に融資を受けた先がたまたま恋人

の男性だったということだ。

『男を獲物として見る女が多いのには驚かされる。私は男を罠にかけるようなことはしない』

という発言からもわかるように、夫の地位や財産に依存して生きようとする女性をシャ

ネルは嫌っていたという。そんな女性に魅力も品性もない。結婚は愛が理由でなければ

ならない、と。

 

 シャネルが40歳の頃、ヨーロッパいちの金持ちと言われるウェストミンスター公爵

との恋愛では、相手から高価でゴージャスな贈り物が届くたびに、それに相応する贈り

物をすぐさま返していたという。

 

 これだけ仕事に精力的に取り組みながらも、恋愛をおろそかにせず人生を謳歌したシ

ャネルは素晴らしい。たまに、「仕事が忙しすぎて男性と付き合う暇なくてもうこんな

年齢・・・」とかいった言い訳している女性がいるが、ほんとただの言い訳だと思う。

自分に女性としての魅力がないことの言い訳である。

 仕事か恋愛かなんてどっちかを選ぶ必要なんてないのだ。どっちも得たらいい。

 

 こういう考え方が、シャネルはフランス人だなあと思う。女性の社会的自立が当たり

前で、恋愛至上主義のフランス。しかし、シャネルの発言を見ると、当時はまだまだ女

性は男性に依存して生きるのが当たり前の時代だったようだし、シャネルのような女性

は珍しかっただろうと思う。現代フランスはこのシャネルの精神が定着した結果なのか

単なる時代の流れなのか。

 

私は私〜超訳 ココ・シャネル〜(書評①シャネルのファッション)

著者は山口路子氏。

この作品に限らず、海外有名女性の人生を描いた本を数冊出版なさっているようだ。

 

 

 以前、ココ・アヴァン・シャネルという映画を観て、シャネルがどういった経緯であ

の偉大なデザイナーへと成長したのかざっくりとではあるが知った。私はそれ以来シャ

ネルが好きだ。

 

 

 有名な話だが、シャネルはフランスの田舎町の行商人の家に生まれ、母親は12歳の時に病死、父親はシャネルを孤児院に預けて失踪してしまった、という大変な子供時代を過ごしている。

 18歳の時に孤児院を出てお針子として働きながら、歌手を夢見てキャバレーで歌っ

ていたという。

 その後芸能界への道は諦め、交際していた将校バルサンについてパリ郊外へ移り過ご

す。その間、暇を持て余していた彼女は、帽子を製作していた。この帽子が人気にな

り、恋人バルサンの後押しと援助により、パリで帽子のアトリエを開業。その後はトン

トン拍子に事業を拡大し、大成功する。

 途中、2度の大戦を経験し、労働者のストライキや自身のスイス亡命等、常に順風満

帆だったかというとそうではないが、87歳で亡くなるまで、最後まで精力的に働き続

け、不動のハイブランドを確立した。

 

 

以下から何回かに分けてシャネルについてまとめてみる。

 

シャネルのファッション

 

 街中や雑誌で見かける洋服を見ると、シャネルが作り上げたデザインに溢れているこ

とに気づく。

 

・黒いワンピース

ツイードの服

・ジャージー素材の服マリンボーダーシャツ

パンタロン

・プリーツスカート

・イミテーションジュエリー

・ショルダーバッグ

・リップスティック

 

 シャネルというとCとCを合わせたシャネルマークが有名で、とりあえずあのマークがデカデカついてりゃなんでもいいから欲しいっていう女性が結構いるのでは、という

くらいあのマークだけが有名。しかし、それだけ見てたら一生シャネルの凄さは気づけ

ないだろう。上記の、今では当たり前のように着ているもの使用しているものが、シャ

ネルが作り出したものなのである。

 

 シャネルが出てくるまでは、ヨーロッパ女性のファッションの主流は、コルセットつ

けた床まで届くスカートのドレス、でっかい帽子、白やピンクの明るい色を好み、黒色

は喪服の色として敬遠されていたという。それをシャネルは全部ひっくり返した。黒一

色の超シンプルなワンピース、つばの小さな帽子。また、女性がズボンを履くこともな

かった時代に、パンツスタイルを提案し、ロングヘアが定番だった中で、ショートヘア

も流行らせた。

 

 シャネルは派手な色合いを嫌い、シンプルでシックであることを追求した。黒白ベー

ジュを好んでいたという。フランスの街中に行くと、フランス人の感性は今でもシャネ

ルの影響が強く残っているのだろうと感じる。全体的に黒白ベージュの色を着ている人

で溢れているからだ。(もちろん奇抜だったり明るい色の服を着ている人もちらほらい

るが、イタリアとかに比べると明らかに少ない)

 非常に合理的な考え方で、無駄なことや自分の嫌いなものを削ぎ落とし、古い慣習や

考え方にとらわれずに自分の感性を大切にし、時代をひっくり返したのである。

 

 こんなにも後世まで影響を与えたデザイナーって他にいるのだろうか。女性の洋服の

基礎を作ったと言っていいんじゃないか。

 

 

ノッティングヒルの恋人

1999年公開のアメリカ映画。

監督はロジャー・ミッシェル、脚本はリチャード・カーティス

 

 

 気がつけば前回の投稿から2ヶ月弱空いてしまった。しばらく他にやることがあったりちょっとした旅行に行っていて映画を全然観ていない。それ以前に、不思議なもので、映画や本てのは全く見る気にならない時期と、無性に観たくてたまらない時期があって、このしばらくはそんな時期だったということが大きい。

 はたから見てただの娯楽であっても、興味がなかったり、やりたくないのにやらなければならないことをするのはただの苦痛であり、その辺の仕事となんら変わらないよね。

 

 

 で、今回は表題の通り。ちょっと昔の有名な映画。なんとなく興味持てなくてずっと観たことなかったけど、目に留まったので観てみた。

 とても単純なラブストーリーで、ちょいちょいコメディ要素もあって、平和な気持ちで観られる。観終わった後も若干幸福感がある。

 

 舞台はロンドン西部のノッティングヒル、バツ1の小さな本屋を経営するウィリアム(ヒュー・グラント)とハリウッドスーパースター女優のアナ(ジュリア・ロバーツ)が、あるきっかけで出会い、恋に落ちる話。スーパースターゆえに普通に恋愛するのも大変で、うまくいかなくなるがなんやかんや結局うまくいってハッピーエンド。

 

 これ観てると、ロンドンに旅行じゃなくて住みたいなーと思えてくる。昔の映画だしヒュー・グラントジュリア・ロバーツも若い若い。こんなところに住んでおしゃれにのんびり暮らしながら素敵な恋愛羨ましい。

 

 この映画特に書くことない平和な内容だが、とてもいい映画なのでおすすめ。ヒュー・グラントの優男?ダメ男?な感じがまたかっこいい。かっこいい人は何やってもかっこいいからいいね。

 

アマデウス

1984年制作、アメリカ映画。

ミロス・フォアマン監督、ピーター・シェーファー原作・脚本。

F・マーリー・エイブラハム主演、モーツァルト役にトム・ハルス。

 

 アカデミー賞のうち、作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、美術賞、衣装デザイン賞、メイクアップ賞、音響賞の8部門を受賞。他多数の映画賞に受賞歴がある。

 

ブロードウェイの舞台「アマデウス」からの映画化らしい。

 

【あらすじ】

 物語は、自殺を図り、精神病院に運ばれたイタリア人作曲家アントニオ・サリエリが神父にその生涯を語るという形式で進む。

 

 サリエリは子供の頃から音楽が大好きで、音楽の道に進めるのなら、それ以外は全てを神に捧げてもいいとまで思い、実際、その信仰を守り、ストイックに生きていた。やがてオーストリア皇帝ヨーゼフ2世のピアノ教師、作曲家となり、順風満帆かと思われた。

 そんなある日、幼少の頃から神童とうたわれ、その父と共にヨーロッパ各地を周り、演奏を披露していた若き天才ドイツ人作曲家モーツァルトが現れる。

 サリエリは、モーツァルトの音楽的に恵まれた環境や才能に嫉妬し、モーツァルトが高く評価されることを恐れ、あらゆる場面で妨害しようとする。しかしまた、嫉妬に狂いながらも、誰よりもモーツァルトの才能を評価し認めていたのもサリエリであり、モーツァルトの作品に惚れ込んでいた。サリエリはこの嫉妬と羨望の苦悩に苦しみ、モーツァルトの死を画策するようなる。

 そして、そのチャンスは訪れ、実際にサリエリが手を下したわけではないが、後押し、あるいは早めた形で、モーツァルトはレクイエム作曲中に病死する。

 サリエリはこの結果を待ち望んでいたはずなのに、この事実に絶望し、苦しみ続け、やがて精神を病んでしまうのである。

 

【感想】

 終始モーツァルトの美しい楽曲が使われ、また、映像も素晴らしく、動く絵画を見ているようだった。

 途中途中「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」等、超有名なオペラが登場して、見入ってしまう。

 ストーリーとしては正直微妙なところで、なんとなく先がわかってしまってのめり込むほどではなかった。

 とはいえ、サリエリモーツァルトへの感情、その才能への強い嫉妬と羨望、天才的能力を尊敬しているのに憎んでしまうという感情、人間生きていれば一度は経験しているのではないだろうか。なんでもできる超天才とかであれば無いかもしれないが、凡人に生まれて、特に人より秀でた能力もない、あるいは、ちょっと人より優れているけどもっと優れている人はいるって程度の能力を持ち合わせている人。そんな人で、何かに頑張っていたり、人生をかけていたり一生懸命だったりする人には、ぶち当たる感情ではないだろうか。自分がどんなに努力し、力を注いでも勝てない相手。更に、相手はさして努力もせず、簡単にこなしてしまう。自分の欲しいものをたやすく手に入れてしまう。ただのライバルではない。本来ライバルにさえなり得ないのである。元々の能力が違いすぎて、努力で追いつけるものではない。

 こういう音楽や芸術、スポーツ等の才能が左右するような業界はこの嫉妬と尊敬の感情が渦巻いていそうだ。そんな感情の中で結果

を出していく精神的強さも求められるだろうし、まあ私はすぐ押しつぶされちゃいそうだから無理だわ。しかし、こういう業界ほどの厳しさではないにしろ、一般社会でもこの感情に苦しめられることはよくあると思う。例えば、学生時代の短距離走のタイムやら試験の点数、大学受験の時期・・・・私の高校時代(大昔だが)、仲良かったカップルが受験勉強の時期に模試の点数が相方の方が良かったとかの理由で仲違いし別れた、というような話を何件か聞いたことがある。また、自分自身、昔、会社で同期の人と社内恋愛していたのだが、相手があまりに優秀で仕事ができ、逆に自分は努力してもそこまでの能力がなかった為、嫉妬のあまり喧嘩が絶えず別れてしまったという経験がある。物凄く好きだったにもかかわらず、だ。

 嫉妬の感情というのはこれほどに強い感情なのだ。人の正常な判断を狂わせ、通常であれば思いもしないような行動を起こさせる。嫉妬の感情に駆られて行うことに良い結果が伴うことはあまりない。でも、そんなことも想像できないくらいにがんじがらめになってしまう。

 この映画を観て思うのは、自分の感情の中から抜け出し、できる限り客観的に観て、視野を広く持つ必要性だ。もちろん簡単ではない。しかし、感情の渦中にいてそこで溺れていると、取るに足らないことが大きく重要なことに見え、本来自分がなすべきことが見えなくなる。この映画のサリエリで言うなら、モーツァルトの音楽的才能に嫉妬し、自分を脅かす脅威であると捉えてしまっていることや、自分にはない自分が欲しかったものを簡単に手に入れていると思われる彼への妬みだ。彼がもっと全体を見ることができたなら、自分には到底追いつけないほどの才能を持ったモーツァルトを援助し、潰そうとするのではなく、育むことに重きを置いただろう。それによってモーツァルトだけでなく、音楽業界全体への貢献になるわけで、サリエリにとっても良い結果に繋がっただろう。

 

 とはいえ、この話はフィクションである。実際のサリエリモーツァルトを殺そうとしたこともなければ、精神病院に送られたこともない。彼はモーツァルトを高く評価し、モーツァルトの曲をたびたび演奏するなど、その才能を認め親交を持っていた。また、経済的にも社会的にも成功し、自分が恩師にしてもらったと同じように弟子から一切謝礼を受け取らず、支援を惜しまなかったという。

 他方、モーツァルトに関していうと、性格的には実際の人物像に近いようである。天真爛漫、品行下劣、浪費癖、容姿も微妙で、音楽的才能以外は何も持ち合わせていなかったようだ。また、 妻のコンスタンツェも、同様に浪費傾向があったという。

 

 ついでにどうでもいいかなり個人的な意見だが、この映画の中でのコンスタンツェについて。とても可愛いのだが、妙に腹が立つ。容姿も振る舞いもどうも私の嫌いなタイプである。

 あと、あの極度に胸を強調した服装にびっくりした。西洋絵画ではよくお目にかかるが、あんなのは絵の中でオーバーに描いたものであって実際はそんなことないだろうと勝手に思っていたら本当にあんな服装できるものなのね。