偏ってる映画日記

主に映画、ごく稀に本についての感想を自由に書いています。

映画『きっと、うまくいく』

2013年日本公開のインド映画。

監督はラージクマール・ヒラニ

2010年インドアカデミー賞史上最多16部門独占。

 

・・・・しかしインド制作映画は初めて観るし、インド人俳優はさっぱりわからない。人気なのかそうじゃないのかもさっぱり。インドにも行ったことないし。

そんな状態なのにこの映画を観ようと思ったのはなぜか?深い意味はなく、なんとなく手に取ってしまったから。数ある映画の中で、この映画だけがインド映画で、しかもかなりおすすめ扱いにされていたから。これだけマイナーな国の映画を押すってことは相当面白いからに違いない。

で、結果としては・・・・かなり面白い良い映画だった。

ストーリーは単純明快で、全編通してコメディタッチ。学園ものというのか、大学生活が舞台となっている。

 

超エリート工業大学に入学した落ちこぼれのファランとラージュー、超変わり者のランチョーという3人の学生生活を笑いあり涙あり少し恋愛も挟んで描いている。

このランチョーという若者が、とても良いキャラをしていて、彼の日々の言動が、レールが敷かれ、やりたいことも諦めエンジニアになることだけを目指して勉強してきた仲間たちやその家族、学長の心に変化をもたらしていく。

ありえないむちゃくちゃな設定もたくさんあるが、それがまたこの映画を面白くしている。

この映画には一貫したメッセージが込められている。

 

好きなことをして、好きなことを学び、好きなことを仕事にしろ。成功は自ずとついてくる。

 

私には最初から最後までこう言われ続けている気がした。

もちろんランチョーが10年後に科学者として、ファランが動物写真家としてそれぞれ大成功を収めていることなどは、ただの映画だし好きなように作り上げられる話ではある。しかし、このランチョーの言う勉強や職業に対する見方には考えさせられるものがある。ランチョーは、機械が大好きで、機械のことを勉強したくて大学にきた。他の仲間たちは、親がエンジニアになってほしくて、お金をかけてくれてきたからとか、好きなことじゃ裕福になれないとかの理由で勉強し、特に好きでもない学問を修めるために大学に入ってきた。

この違いは非常に大きい。好きなこと興味のあることを学ぶ時と、興味のないつまらないことを学ぶ時とでは、使う労力が全然違う。好きじゃないことを無理にしようとする時というのは膨大なエネルギーを消費する。そして、膨大なエネルギーを消費する割にはせいぜい人並みくらいの出来にしかならず、またしばらくするとすぐ忘れてしまう。

 

ふと自分の大学生の頃や選んだ就職先のことを思い出していた。本当に興味のあることや好きなことを追求しようとは思っていなかった。周囲からどう見られるか、親がどう思うか、最低限世間的に恥ずかしくない大学、会社、自慢できる職業。それがまず基準にあった。そして今から考えるとありえないことなのだが、職業を選ぶ時に、「自分の得意なこと」や「好きなこと」ではなく、「不得意なこと」「将来役立つスキルが身につきそうな職」を探した。結果、それなりに当時の自分の望む会社で望む仕事をすることになったが、そんな選び方をしているもんだから(※器用な性格の人であればそんな選び方したってうまくやれるのかもしれないが)、同期ができることが自分はスムーズにできず、かなり努力しないと追いつけないことになった。いや、努力してもしても追いつけないし、その努力がまたしんどいのだ。やらなきゃいけないとわかっているのにやる気が起きない。そして、仕事で成果挙げられても、あまり嬉しくなく、やりがいもなく。どんどん自己評価は下がり、ただ生きているだけの状態。

もし、高校生3年生のあの頃の自分、あるいは就職活動のあの頃の自分に声をかけられるなら、「自分の得意なこと、好きなことを基準に選べ」と言いたい。

しかしまた、あの頃の自分は周りからこんなことを言われたところで聞く耳持たなかっただろうなとも思う。

 

非常に単純な笑える映画だが、だからこそ、将来ある子供たちに観せたい映画だと思った。

 

 

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映画『赤いアモーレ』

2004年スペイン映画。

監督兼主演セルジオ・カステリット、共演はペネロペ・クルス

 

もともとベストセラー小説だったものを映画化。

2003年度イタリア・アカデミー賞11部門ノミネート、最優秀主演男優賞と最優秀女優賞受賞。

 

 

題名からして熱そうな恋愛映画だろうと想像していたが、ちょっと想像とは違った。

 

ざっくりあらすじをまとめてみる。

話は、バイク事故で意識不明重体、生存が危うい状態の少女がある病院に運ばれてくるところから始まる。少女はなんとこの病院の外科医の一人であるティモーテオの一人娘だった。

時は変わり、10年以上前のティモーテオの過去に遡る。綺麗で仕事もできる奥さんを持ち、医師の仕事も順調、何不自由ない生活を送るティモーテオ(セルジオ)は、仕事で訪れた寂れた荒廃しかけた街で、たまたま電話を借りることになったイタリア(ペネロペ)と言う名の女性を衝動的に襲ってしまう。妻とイタリアに多少の罪悪感を持ちながらも、イタリアに再度会いに行き、定期的に密会する関係に陥る。

しばらくして、イタリアに子供ができたことを知ったティモーテオは、産んでほしいと言う。妻にも正直に全部話してイタリアと正式に一緒になろうと決意いた矢先、妻にも子供ができたと告げられる。そんな二つの関係のはざまで苦しみながらも、妻にバレないように振舞っているうちに、イタリアとは会えない日々が続く。そうしているうちに、イタリアは自分は捨てられたと思い、堕胎を行なってしまう。

イタリアは故郷だというカナダに旅立つことを決意するが、ティモーテオはイタリアを本気で愛しており、手放したくない。仕事も妻も投げ出してイタリアの旅立ちに連れ添い、愛の誓いを交わすが、急にイタリアの体調が悪くなり、緊急で病院に運んだが、手遅れだった。死因は堕胎によるものだった。

ティモーテオは愛する人を失い、また以前の日常へと戻る。

そして今、また自分の娘という愛する人を失いかけている。

イタリアの想い出と交錯する。

結局、娘は意識を取り戻し、外の雨もやみ、晴れ間が見えてくる。

 

 

観終わってすぐは、一体なんだったのかよくわからなくてしばらく考えてしまった。軽い紹介文では、不倫とか官能系映画と書かれていたような気がするが、そういう映画ではない。いわゆる不倫をしてはいるものの、不倫がテーマの映画ではない。ラブシーンもちょいちょい出てはくるが、そんなひどい露出もないし、ペネロペに至っては下着姿くらいしか出していない。注意力の無い私にはわかりにくい映画だった。解説を読んだりしたところ、あぁなるほど・・・っていう場面がいくつもあった。あれ何の意味あるのかなあ〜ってくらいで深く考えずスルーしてたら、意外と重要な意味を持っていた場面がいくつかあったようです。そこを理解していないと、全体通して???となってしまうのだった。スペイン映画って滅多に観ないので、こういう映画多いのかはわからないが、フランス映画と共通する不思議さ、意味不明さ、暗さがある。

で、意味ある場面だが、

1、衝動的にイタリアを襲っってしまった日、妻のもとに帰ったティモーテオは、浜辺で砂に、「私は女を強姦した」という意味の言葉を書いていたが、妻はそれに気づくこともなく気楽にたわいないことを話し続けている。

3、子供が欲しいといったティモーテオに「今の生活で十分満足している」と言って取り合おうとしなかった妻。

2、妻の電話中に、ティモーテオが隣の家のおばさんに、「自分は哀れな女を孕ませた」といったことを叫んでいるのだが、妻は全く気づかず電話に夢中である。

 

こういった場面は、特に説明があるわけでも無いしパッと切り替わるので、少し異様な感じはしたものの、何を示唆しているのかわからなかったが、要するに、ティモーテオ夫婦は表向き全てがうまくいっている幸せな夫婦に見えて、実は、妻は夫に興味がなく、夫の行動なんて見ておらず、自分のことしか見ていない。ティモーテオは精神的に孤独な、かわいそうな子供のようだ。

そんな中、妻とは全てが正反対の、退廃した街でその日暮らしのような生活をしている、浅黒くて、厚化粧で、髪はボサボサのシラミ湧いているような、素直に自分の感情をストレートに表す女イタリアに惹かれていき、そこに生きる活力、幸せを見出すのだ。

彼はただの軽い浮気心でイタリアに接していたわけではない。イタリアに子供ができたと知った時、本気で妻と別れようと決心した。きっともう随分前から妻への愛情は無くなっていたのだろう。ただ形だけの結婚生活の関係と結婚していないけど本気で愛し合っている関係。結局、ティモーティオが今までの安定した常識的な生活を振り切れずにもたもたしている間にイタリアとの子供という幸せが逃げていってしまった。そして、またイタリア自身という大切なものがまさにいなくなってしまう・・・・もうそんなのは嫌だ!とばかりに学会の仕事を途中で放棄し、ほとんど妻のことも顧みずにイタリアのもとに駆けつけた。

しかしそのイタリアという幸せも逃げていってしまう。

全てのタイミングが悪かった。

 

そして、妻とのいつも生活に戻り、産まれた娘も大きくなるが、なぜか娘に柔道をさせている。そもそも柔道が好きじゃないのにやらされて、いちいち説教されてキレた娘は、「私は男の子じゃない!」って泣き叫ぶ。ティモーテオはイタリアとの間に生まれるはずだった男の子を娘に重ねていたのだろう。虚しい生活の中に産まれてきてくれた娘にイタリアとの幸せを重ねていたのか。

その唯一の拠り所となっていた娘もまた死によっていなくなってしまう寸前だった。

正直、結局のところティモーテオはどういう風に自分の人生を腹に落としたのかわからなかった。しかし、最後に娘の意識が戻り、雨は上がり、晴れ間が見えた中を歩いていくティモーテオの姿からは、決して暗いものではない、何かすっきりしたような吹っ切れたような空気を感じた。

 

 

イタリア役だったペネロペにも驚きだった。

上品さを一切排除した、本当にその辺にいそうなやさぐれた女性の役を演じきっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画『サンローラン』

2014年フランス・ベルギー合作映画。

ベルトラン・ボネロ監督。

主演ギャスパー・ウリエル、ジェレミー・レニエ。

アデル、ブルーは熱い色』のレア・セドゥも出演している。

 

2014年第67回カンヌ国際映画祭セザール賞、最優秀衣装デザイン賞受賞。

 

 内容は、イヴ・サンローランがデザイナーとして最も成功していた1965年〜19

76年頃の日々をメインに描かれている。

 

 イヴ・サンローランを演じる俳優(ギャスパー・ウリエル)がかっこいい。線が細く

美しいので、お洒落な格好がとてもよく似合う。

 ざっくりあらすじを言うと、兵役時代に患った精神疾患を抱えたイヴはフランスモー

ド界でデザイナーとして大成功しており、なんやかんやスランプ的な時期も繰り返しな

がらも精力的に製作に勤しんでいる。美しく魅力的な女性をスカウトしては自分の作品

のモデルとして周囲に侍らせ、また女性の魅力を最大限に引き出し喜ばせることにも長

けていた。しかし、彼はゲイであり、公私ともに支えてくれる恋人ピエール・ベルジュ

(ジェレミー・レニエ)がいる。そんな中、イヴは他の男ジャックに恋をし、アルコー

ルやドラッグに溺れていく・・・・

といった内容である。

 

 ファッション業界に詳しくないので、「おお!これはイブサンローランの〇〇の時の

作品だ!」のような感激は特に無いが、とにかく美しい服が沢山出てくる。モード系フ

ァッションでは往往にしてあることだが、日本で着ることはできないような服ばかりだ

が。パーティだろうがデート服だろうが日本で着てる人いたら変人扱い間違いない。

あ、原宿とかでなら浮かないのかな。

 とにかく自分が着て楽しむというより絵画のように観て楽しむ感じである。

 

 話自体はまあ想像通りというか、芸術家とかにありがちな破滅的な人生をたどってい

て、そんなに面白みはない。そもそもあんまりそこを表現したいわけではないんじゃな

いかな、と思う。イブサンローランの作品の美しさをひたすらに表現したいだけなんじ

ゃないだろうか。実際最初から最後まで美しい映像で、綺麗なものが好きな人は楽しめ

ると思う。

 

 しかし、画家やらデザイナーやら作家やら芸術家ってほんと恋愛に関して奔放だと思

う。また同性愛者も多いと感じる。尚更奔放に映る。ファッション業界で働く友人が言

うにはやはりゲイの人とかよくいるらしいので、実際そうなんだろうなあ。あと、お酒

にもよく溺れているイメージがある。繊細で自由気まま、自分の感性を大切にしている

からそうなるのか。あまり平穏に生きているイメージがない。いつも何かに苦しんでい

る感じ。やはり偉大な芸術というのは平穏で平凡な感性からは生み出されないのか。多

くの人と違う視点と感性を持っているからこそ生み出せるものなのか。

 

 美大出身の画家の友人によると、美大生は普通と言われるのが嫌で、変わってると言

われることが褒め言葉だという。私は昔から変わってると言われ続けてきたが、それが

嫌で嫌で辛かった。人と違うことが恥ずかしくて普通だね、と言われたかった。普通に

しようとしても周りから浮いてしまい、自分という人間に自信が無く自分のおかしな行

動を否定していた。しかし、「変わっている」ということを嬉しく思う人達がいること

を知り、また例えば美大や芸大のような、そんな人達が集まる場があるということを知

り、自分はこのままでもいいのかもしれないという思いを持つようになった。

 やはり、学校、職場、あらゆるコミュニティには合う合わないがあり、自分に合った

場所や仕事を見つけてそこでやっていかないと常に苦しい人生になるだろう。いわゆる

「普通の人」が芸術家の集まりに入ってしまうと苦しむことになるのだろう。これは子

供のいじめや不登校の話にも通じるところがあるのではないか。子供の頃は視野が狭く

世間も狭いので、家族と学校このコミュニティが全てで、他に行っても同じで、自分が

認められる場所なんてないんじゃないかと思いがちだ。そんなことはないんだ、もっと

世界を見ろ、と言ってあげたい。その常識は常識ではないんだと教えてあげたい。

 

 

 

 

 

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映画『92歳のパリジェンヌ』

2015年制作フランス映画。

 

パスカル・プザドゥー監督、脚本。

 

 原作は、リオネル・ジョスパン元フランス首相の娘で作家のノエル・シャトレが綴っ

た小説。内容は、元首相の母、すなわちノエルのおばあちゃんの終末期についての物語

である。

 

 題名だけで勝手に『クロワッサンで朝食を』のような人生謳歌的なストーリーかと思

って観たのだが、全く違う内容だった。どちらも歳を重ねた女性の物語ではあるし、

様々な経験をしてきた天真爛漫な女性の話ではある。しかし、『クロワッサンで朝食

を』の方はだんだん話が明るくなり、最終的にはとても前向きになれる、生の喜びのストーリーなのに対し、この映画は最初明るく、だんだん重くなり、最後は何とも言えな

い気持ちを残して終わる。

 

 さらっと説明すると、この主人公である女性は、家族にも恵まれ、頭もはっきりして

いるし、一人暮らししているくらい体もまあ問題なく、幸せな老後を謳歌している。し

かし、家族との92歳の誕生日パーティの際に、唐突に、「2ヶ月後に私は逝きます」

といったスピーチを始める。理由は、周囲に迷惑を書ける状態になる前に人生を終えた

い、という思いがあるからだという。もちろん皆反対し、どうにかして死ぬことをやめ

させようとするが、彼女の意志は硬く、次第に娘も母の意志を尊重するべきなのだと心

が動き始める。

 

 この話は、いわゆる尊厳死についての問題がテーマなのだということに終盤で気づい

た。展開があまりに飄々としているというか、若干呑気な空気で進んでいくので、こん

なに重いテーマとは感じ取れなかった。

 

 私は、常々身内の一人との会話でこの尊厳死に関するような話をする。その身内は、

60歳くらいで元気なうちにさっさと死にたいといつも言うので、私は、そんなこと言

うのやめてほしい。そもそも60歳なんてまだまだ元気なのに。死ぬ必要なんてない

よ、と答える。しかし、相手は、もう子供もたくさん産んで、十分人生頑張ってきて、

これ以上悔いはないし、体力も落ちて病気で体悪くなってしんどいと思いながら、周り

に迷惑かけながら生きたくない。と言う。世の中には年老いても元気に遊びまわってい

る人もいるし、そんな悲観的にならなくてもいいのにと思うのだが、こういった考えの

人は私が思っているより多いのだろうか。そう言えば、以前仕事で知り合った70歳く

らいのお婆さんたちも、もうこれだけ生きたら何の未練もないし、子供たちに迷惑かけ

てまで生きたくないからころっと死にたい、この年まで生きれたのだからこれから健康

に気を使ってお酒我慢とかしないよ、好きなもの食べて飲んで死ぬよ。といったことを

言っていた。年齢を重ねると、死を受け入れる心境に自ずとなるものなのか。

 

 また、その話題に関連して、姥捨山伝説の話が出てくる。これは、昔、日本のお殿様

が、年老いて働けなくなった老人を山に遺棄せよ、といったおふれを出したといった話

だ(ただ、これはあくまで伝説であって実際に行われた可能性は低そうだが)。ただ、

姥捨山は老人側が死を望んでいる尊厳死ではなく、死を望んでいない老人を山に遺棄す

るのだから、現代であれば立派な殺人罪や保護責任者遺棄罪だ。身内は、この山を例に

出しては、この高齢化社会の時代で、ただ医療が発達し、従来なら生きられなかった老

人達が生き続けていて社会の負担になるばかりなんだし、現代の姥捨山のようなもの

も、必要なんでは・・・といった論を述べる。身内は一貫して年老いて周りに迷惑かけ

て生きている年寄りにはなりたくないという立場から発想していく。しかし、私にはど

うしても納得いかないし、何かそんな悲しい考え方を取り払える考え方はないのか、と

思っていた。

 

 最近、オスマン・サンコンさんがあるインタビューで語っていた話の中にヒン

トというか少し光が見えた気がした。

 

「故郷のギニアのことわざに、“お年寄りが亡くなることは大きな図書館がひとつ燃えてなくなることだ”というのがあります。つまり生きているお年寄りは図書館と同じ。それほどお年寄りの知恵と経験は大切で、子から孫へと伝えられていくものなんです。」

 

 温かい気持ちになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画『母なる証明』

2009年韓国映画

ポン・ジュノ監督。

 

 

 韓国映画はほとんど観ないので、この監督が有名なのかとかさっぱりわからないが、

なかなか面白い映画だと思ったので書いておこうと思う。

 あまりに韓国に興味が無いため、出演者は、息子役のウォン・ビンしか聞いたことは

なく、しかも名前しか知らなかった。が、とても綺麗な顔をしていて日本人的感覚でい

っても十分かっこいいと思われる。

 

 映画全体の色が青っぽい。どちらかというとフランス映画とかの雰囲気。寂しい、晴

れているのに雨の日のような映像。途中ちょいちょいコメディタッチで描かれている

が、それでも暗い。

 

 内容は、軽い知的障害のトジュン(ウォン・ビン)が、女子高生殺害容疑で逮捕さ

れ、無実を信じる母親が息子を助けるべく奔走するという話。貧乏なこともあり、苦労

するが、失敗を重ねながらも調査を続けていくうちに、目撃者を探し出す。しかし、そ

の目撃者が語ったことは、トジュンが犯人であると決定づけてしまう内容だった。

 動転した母親は、警察に証言しようとする目撃者を殺害し、住居を燃やし、何事もな

かったかのように、釈放されたトジュンとの暮らしに戻る。

 ある日、町内の慰安旅行に行くことになった母親に、トジュンが「火事のあった場所

にたまたま遊びにいったら見つけた」という、母親の仕事道具を渡す。

 

 文章で簡単なあらすじにすると伝わりにくいのだが、最後まで薄気味悪い感じが残る

映画だった。登場人物は息子のトジュン含めて皆思惑を抱えているというか、完全に信

用ならない、何を考えているのかわからない感じがある。

 悪友ではあるが友人のはずのジンテは、トジュンが知的障害者であるのをいいことに

車のサイドミラーを壊した罪をなすりつけ、殺人で捕まった際も面会にも来ない。しか

し、お金をもらったとはいえ、母親からの尋問依頼を引き受け、トジュンのために尽力

し、トジュンが釈放された日には彼女と一緒にケーキを持って迎えに来ている。

 そもそも、息子を想い、助けようと必死な母親の姿を描いているにもかかわらず、捕

まったトジュンはしばらくして、5歳の頃母親から農薬を飲まされて殺されかけたこと

を思い出し、二人は険悪な関係になる。

 殺された女子高生だって別に清らかな若者でもなく、貧困から、売春を繰り返してい

たという設定である。

 結局は、女子高生が、たまたま通りすがりのトジュンに、たまたまトジュンがキレる

言葉を発してしまったことで起こった事件であり、そこには怨恨も金銭も強姦も絡んで

いないのである。真相は何の複雑さも無い事件だったのだが、この映画は、ミステリー

とか謎解き映画では無い。事件を通して、人々の陰の部分が現れるようにしていて、そ

れがテーマであると思われる。

 題名も母なる証明だし、英題もmotherだから、結局は親子の絆の話で収まるかと思っ

たら、そうでは無かった。母親は終盤まで息子の行動にギクリとしながらも、最後は考

えることを放棄し、なかったことにしてしまうような終わり方。

 それぞれの人物の行動には様々な解釈ができそうな内容だったが、私は敢えて自分な

りの解釈を持たず、母親が取ったように考えないことにし、全体の薄気味悪さの余韻だ

け感じておくことにする。

 

 

 

 

 

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映画『愛の流刑地』

2007年公開の日本映画。

原作は渡辺淳一の長編小説。

主演は豊川悦司寺島しのぶ

 

 

 

 当時結構話題になっていたので聞いたことある人は多いと思う。主題歌が平井堅で、

大概の人は曲も何処かで聞いたことがあるだろう。テレビドラマにもなった。

 昔売れていたけどもう売れなくなった小説家の男菊治(豊川悦司)と昔からその小説

のファンだったという子持ち人妻冬香(寺島しのぶ)の不倫話。幸せの絶頂で男に自分

を殺させた女と、その後殺人罪で起訴される男。

 正直渡辺淳一を好ましく思っていない私は、昔大流行した失楽園も含め興味なかったのだが、なぜか観てしまった。

 で、感想としては、なんか勿体無い映画だと思った。豊川悦司寺島しのぶの演技は

素晴らしいし、出演者が端役も含めて全て豪華な俳優で固められていたと思う。しかし

それ以外の細かい設定がおかしすぎて違和感だらけだった。

 

 ベッドイン途中なぜかいきなり浴衣に着替えてくると言いだす冬香。でも下にはスリ

ップもパンツも着けている。

 太陽の光が眩しくて遮る時の手の動きを見て、冬香が北陸出身じゃないかと思う菊

治。で、富山出身という冬香。

 都合よくベッドイン中の声をテープに録音していた菊治。それによって冬香が殺して

ほしいと言っていたことの証拠となる。

 長谷川京子演じる検察官の存在の意味。恐らく、上司と不倫関係かなんかだったのだ

が、この設定は必要あったのか?中途半端過ぎていない方がよかったくらい。

 長谷川京子のファッションが胸元開きすぎていたりミニスカートすぎたり体型を強調

しすぎな若干下品な格好だった意味。

 仲村トオル演じる冬香の旦那のキャラ。エリート営業マンで仕事に打ち込みすぎて家

族を顧みない短気で傲慢風。

 

 恐らく裏設定がそれぞれの人物に細かくあって、それをちょいちょい表現しようとし

たが、この短い1回の映画では伝わりきらなくて、見る側に「え?」って思わせてしま

う。このシーンとかいらなくない?となる。富山の有名な盆踊りを出してきたり、冬香

の夫に裁判中にキレさせたり、見る側がすぐに裏設定を把握できるようにしようとした

のだろうが、わざとらしすぎて滑稽な映画にしてしまっている。

 

 それから、この話は渡辺淳一の思い込みというか幻想というか、おじさんの女性への願望が爆発していて笑えてくる。以下に思い出せるものをあげてみる。

 

・45歳のおじさんと32歳の年下女性との恋愛。(小説では55歳と36歳設定)

・相手女性は人妻。

・人妻で3人子持ちだけど性に対してうぶで清純。

・その女性は雪国生まれの控えめで大人しい性格。

・でもベッドの中では積極的で激しく乱れる。

・浴衣着ててほしい。

 

 いろんな矛盾を抱えているにもかかわらず、それを無理やりな理屈で収めようとしていて何か気持ち悪い。

 自分は北陸出身なので、このおじさんの勘違いがよくわかる。他の地域の人たちと同

じように、雪国の女は大人しい人もいれば大人しくない人もいる。自己主張の激しい者

もいれば控えめな者もいる。こんなこと別に北陸出身じゃなくたってわかる。完全に渡

辺の妄想の北陸女なのである。

 

「雪国の女はおとなしそうに見えても心の中にはきついものを持っている。」

 

裁判での冬香の母が富山弁でこう言ったが、お笑い以上のなにものでもない。

 

「死にたくなるくらい人を愛したことはないんですか」

と、終盤菊治は叫んでいたが、失楽園と共通する愛と死。深くは知らないが、渡辺淳一

にとっての恋愛に対する美学か何かなのだろうが、正直どうでもよいし、自分は一生理

解せずに死んでも構わないし、今後そんなことに想いを馳せることもない。生きる上で無駄である。

 どう美化したって結局は旦那とうまくいっていない女との不倫の話を大げさにしてい

るだけだ。

 

 関係無いが、最近小林麻央さんがガンで亡くなられたが、彼女は最後まで生きようと

した。海老蔵さんのため、子供達のため、自分自身のために。

 本当に愛し合っている二人には肉体関係なんて超越した本当の愛情が育まれるし、生きたいと願うものだろう。

 

やはり渡辺淳一と自分は合わない。

 

 

 

 

 

 

 

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本『私は私〜超訳 ココ・シャネル〜』(書評②シャネルの恋愛)

 シャネルは偉大な実業家であるとともに、恋愛もたくさんしていたようだ。

 有名なところでは、ピカソ、ダリ、音楽家ストラヴィンスキーウェストミンスター

公爵、ロシアのディミトリ大公、映画監督ルキノ・ヴィスコンティ・・・・その他たくさんの一流男性と恋愛関係があったという。また、バイセクシャルだったそうで、ファ

ッションへの考え方だけでなく、恋愛においても本当に自由な女性だったようだ。

 

 モード界ではアトリエ内の女性デザイナーのことを「マドモワゼル」と呼ぶ習慣があ

るらしいが、一般的にマドモワゼルというと、シャネル本人のことを指す固有名詞にな

っているという。マドモワゼルとはフランス語で未婚女性につける敬称である。既婚女

性に対するマダムの対語(?)にあたる。

 実際シャネルは生涯結婚することなく独身だった。

 とはいえ、独身主義者だったわけではなく、タイミングが合わなかっただけのよう

で、結婚を決意したと言われる、シャネルが生涯で一番愛したと言われるイギリス人実

業家アーサー・カペルは自動車事故死、50歳の頃の恋人ポール・イリブは心臓発作で

死亡している。

 

 恋多き女性のシャネルだが、この女性のすごいところは、恋愛はするが男性に依存は

しないところにある。完全に経済的に自立した上で、対等に男性と付き合っているので

ある。

 帽子屋の開店資金を援助してもらった恋人アーサー・カペルはどうなんだと言われそ

うだが、その援助金も数年後には全額返済しているという。これは単なる愛人から囲わ

れてお金もらっている女とはわけが違う。起業する際に融資を受けた先がたまたま恋人

の男性だったということだ。

『男を獲物として見る女が多いのには驚かされる。私は男を罠にかけるようなことはしない』

という発言からもわかるように、夫の地位や財産に依存して生きようとする女性をシャ

ネルは嫌っていたという。そんな女性に魅力も品性もない。結婚は愛が理由でなければ

ならない、と。

 

 シャネルが40歳の頃、ヨーロッパいちの金持ちと言われるウェストミンスター公爵

との恋愛では、相手から高価でゴージャスな贈り物が届くたびに、それに相応する贈り

物をすぐさま返していたという。

 

 これだけ仕事に精力的に取り組みながらも、恋愛をおろそかにせず人生を謳歌したシ

ャネルは素晴らしい。たまに、「仕事が忙しすぎて男性と付き合う暇なくてもうこんな

年齢・・・」とかいった言い訳している女性がいるが、ほんとただの言い訳だと思う。

自分に女性としての魅力がないことの言い訳である。

 仕事か恋愛かなんてどっちかを選ぶ必要なんてないのだ。どっちも得たらいい。

 

 こういう考え方が、シャネルはフランス人だなあと思う。女性の社会的自立が当たり

前で、恋愛至上主義のフランス。しかし、シャネルの発言を見ると、当時はまだまだ女

性は男性に依存して生きるのが当たり前の時代だったようだし、シャネルのような女性

は珍しかっただろうと思う。現代フランスはこのシャネルの精神が定着した結果なのか

単なる時代の流れなのか。